今日は朝会社に出て用事を済ませて内孫の順悠を連れて
女房と宮島の水族館に行ってきました。
前回の件で懲りたので車で行きました。
フェリーで宮島まで渡り当社でリニュアルの工事をさせて頂いた
渡辺旅館さんに車を駐車させていただきました。
昔から料理が美味しくて有名だったそうです。
大聖院の正門の入り口に有ります瀟洒な造りで泊まる事もできます。
桧風呂も内湯であります是非一度行って見てあげてください
私はアナゴ丼、女房は順悠とミニ丼セットアジ自慢のだしまき卵も
頼みました。
またおばあさんの作られるまき寿司が名物なので三本土産に買いました。
渡辺旅館さんから順悠をバギーに乗せ水族館まで15分くらいかかりました。
水族館に着くと順悠は喜んでバギーから降りると言い出しました。
大きいサメやエイ見るもの見るもの珍しいのでしょう
結局バギーには乗らず私が抱くはめになりました。
大きい水だこにははじめ興味をしめしてましたが途中で
手で自分の口をおおい怖いというジェスチャーをしました。
確かに私が見てもあまりに大きくてグロテスクなのでさもありなんと
思いました。
1時半よりアシカのショーがありましたがこれには順悠も大喜び
誰よりも早くしきりに拍手をして大喜びしました。
疲れはしましたが順悠の喜ぶ姿に女房と「連れて来てやって良かった」
と言いながら帰路に着きました。
6月3日は亡き母の命日でした。
私は中電病院で人間ドックとペットの検査に行きました。
小さい頃は「おかあちゃん子」でいつも母親にべったりだった私
厳しい父親にボロクソに言われ続けた私をいつもかばってくれた母
しかし長男の宿命と言うか嫁と姑の確執の狭間で同居してからは
色々ありました。
元々が我侭極まりない母だったので女房も苦労しました。
しかし母親にして見れば多分可愛い子供が結婚してから
嫁の方ばかり肩をを持つと言う思いがしていたのでは
と今思い返せばそうも思います。
若い頃から病気がちで30代で腸の大手術をしたり、晩年は悪性リンパ腫と
戦い精神力の強い母はその病には打ち勝ちました。
骨粗しょう症で3回も骨折しましたがそれも驚異的な精神力で
金属を関節に入れて自力で歩けるようにリハビリに励み
歩けるようになりました。
斎場でお骨を拾う時に母親の関節代わりの金属の重さに
こんなに重い金属を体に埋めて頑張って歩いていたのだと
思わず涙が溢れました。
お茶も何十年も続けてお弟子さんに教えたり生真面目で努力家の母でした。
我侭な所やコツコツ努力する所は母親譲りなのだなあ~と
命日の昨日、生前の母親の事を思い出しながらそう思いました。
何回か書きましたが私は能美島の沖美町是長で生まれました。
4歳まで島で育ちました。
父親も母親も能美島で生まれ育ちました。
今日のタイトル「言いたい事は明日言え」は私が大学を卒業して
大阪で7年の現場監督の修行を終えて親父の会社に入り
専務として一人前げに仕事をして、協力業者さんに前のゼネコンにいた
時のように大きな態度?で業者さんのミスを指摘していた頃に
親父から言われた言葉でした。
若造の癖に商売の何たるかが全然分ってないのに
今思えば赤面する事ばかり言ってました。
「徹人間はその場の感情に任せて言ったら駄目だ。腹の立つ事があっても
その場では言葉を飲み込み一晩寝てみる。翌朝もう一度考えてみて
それでも気持ちが変わらなかったらその時言えば良い。一晩たって
考えてみると気持ちが変わってるものだ」多分そのような内容でした。
能美島の昔の人の教えでは無いでしょうから、
昔の人は深い考えを持っていたのでしょう。
今でも時々この言葉を思い出すのですが・・・
短気な性格の私は実践が今でもなかなか思うようにされてません。
馬鹿は死ななきゃ直らないと言う言葉も有りますよね
5月18日は私たち夫婦の結婚記念日でした。
早いもので34回目になりました。
私はうっかり忘れてました。
午前中はFPの講習会に行きました。
帰ると女房に「お父さん今日何の日かすっかり忘れとるね」
と言われてしまいました。
「う~ん最近忙しいから忘れとった」と苦しい言い訳
今日は沼田で構造体険会を開催しているので女房がショウルームに
出勤していました。
女房が「サテイーで夕方映画でも見て食事しようか?」と言うので
それに決定
インターネットで調べると時間的に丁度良いのが「最高の人生の見つけ方」
ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの二大演技派男優の競演と
有ります。
原題は「THE BUCKET LIST」棺おけリスト?
映画の内容は、仕事一筋で大富豪になった男と家族一筋で地道な人生を
送ってきた男が病院で出会い意気投合して余命宣告をされてから
二人で残りわずかな人生を遣り残した事を二人で実現して行く
と言う物語でした。
なかなかに愉しみました。
その後とんかつ屋さんでとんかつ食べて、酒のつまとショートケーキ
を買って帰りました。
ささやかな結婚記念日でしたが、女房は嬉しそうでした。
来年は忘れずに早めに何処か段取りをしなくてはと反省でした。
次男の二女モネは1歳と5ヶ月
片言しゃべり始めて日増しに可愛くなって来ました。
長男の長男?の順悠は一週間早く生まれましたがまだ殆ど
しゃべりません。
姉妹が居ると言葉が早いのか女の子の方が早いのか?
モネは非常に表情、表現力の豊かな子供の様です。
体全体で自分の感情を現します。
私と会うと自分からニコニコ笑いながら手を出して抱かれに来ます。
息子の話によると、父親や母親から持っているものを取り上げても
文句は言わないが姉のココが取り上げると地団駄踏んで大声を
上げて怒り泣きわめく様です。
時にはお姉ちゃんのココに手を出し泣かすことも・・・
そう言えば時々やんちゃそうな表情を見せる事が有ります。
ココが3歳と4ヶ月、順悠とモネが1歳と5ヶ月
孫が成長して行くのは大変楽しみな事です。
孫の結婚式に出れるように、日々節制して長生きしなくては
と思っています。
その為にはダイエットしなくてはいけません
宮島の水族館をあきらめ一路安佐動物園への前に
途中Y様の家を見に行きました。
木材にもシートをかけているし、現場も綺麗に掃除されていました。
天然木材の端材も箱をこしらえて近所の人で必要な人に持って帰って
貰える様にもちゃんとしてました。
車で安佐動物園に着くとはや第一・第二駐車場は満杯
一番遠い第三駐車場に誘導されました。
我侭ココがついに言い出しました。
「ココ眠くなったからおんぶして」
「ココ動物園についたら自分であるくんよ」
ココは「う~ん分かった」
何故か女房がココをおぶり私が順悠のバギーを押して
動物園までトボトボと歩きました。
入園したとたん眠たそうに薄目のココの目がらんらんと輝き
あちらこちらを小走りしだしました。
う~ん何たる見の代わりの速さ
やはり私の孫だ
昔息子らと一度来た事があるみたいでしきりに
「ココ赤ちゃんの時パパとママと来た事ある」と笑いながら
得意そうに話します。
そしてうさちゃんの居るとこに行こうとしきりに催促します。
ウサギはふれあいパークと言う所にいる事が分かり
そこに行きました。
ウサギ居ましたが今日は抱く事は出来ませんでした。
前来た時にはウサギを抱けたようでそれが印象に残っていたのでしょう。
キリン、サイ、ライオン、象、トラ、猿いろんな動物見ましたが
1歳の順悠もバギーから身を乗り出しながら喜びます。
一日朝から孫二人を連れ歩き疲れましたが
孫の喜ぶ姿を見ると疲れも半減しました。
5月4日孫のココと順悠を連れて宮島水族館に向かいました。
連休で車は混んでいると思い宇品港から高速艇で宮島まで
行こうと思い長男のワンボックスカーで宇品港まで行きました。
駐車場に車をとめてココは背中にリュック背負い元気に歩き
順悠はバギーにのせて宇品のターミナルまで行きました。
切符を買おうと思い窓口で聞くと「予約されてますか?」と
思いもかけないこと聞かれてしまいました。
やっと事の重大さに気づきましたが後の祭り
連休で予約して無いとキャンセル待ちの状態
仕方ないから電車で行こうと急遽交通手段の変更
電車に乗ると直ぐにココがお腹がすいたとぐずりだしました。
乗り換えするまで待ちなさいと言っても聞きません。
仕方ないから女房に電車では時間かかるし宮島の水族館は
今日はあきらめようと言いました。
皆実町で降り夢タウンで早い昼食・・・・
サンマルクでパン食べました。
それからタクシーで宇品の駐車場まで帰りました。
ココの一番好きなトイザラスに寄り、孫三人の子供の日のプレゼント
買ってやりました。
女房が会計をしている間に、ココと順悠と先に出ていると
あみだくじがボールの中で舞っているのを目ざとく見つけた
ココは満面の笑みを浮かべて
「じいじい~これココやってもいい?」
孫に甘い私は「うん一回だけやりなさい」
順悠にもやらしてやら無いと
不公平なのでやらせました。
結果は残念ながら4等賞(早く言えばハズレ)
まだ1歳のジュンはなかなかあみだくじを手で掴めません
手を入れるところに飛んできた一枚を何んとか
私が掴みジュンに渡しました。
何とそれが二等賞派手に鐘を鳴らされました。
ジュンは勿論わけ分からずキョトンとしてました。
この後安佐動物園に行ったのですが
この続きはまた書きます。
能美の家の整理箪笥の上にプラスティックの名刺入れの中に
亡き親父の名刺が幾らも使われぬまま沢山入ってます。
私はそれを見るたびに胸が締め付けられるほど痛くなります。
「わしはなんて気遣いの足らない息子だったんだろう」
私が親父から社長を交代したのは昭和62年私が37歳親父は75歳でした。
75歳と言ってもスーパーマンの親父はまだまだ元気一杯でした。
まだまだ現役の社長でバリバリやりかたかっのを無理やり引退させた
帰来もありました。
勿論それからも3~4年は会社に出てきて、縁の下の支えになってくれました。
東雲の倉庫や廿日市の倉庫なども綺麗に残材の整理をしたり今考えると
頭が下がります。
そして80歳を超えて能美島に終の棲家を建てて、主には能美島に帰り
生活をする様になりました。
自分でみかんや八朔や無農薬の野菜などを作り、
私たち家族に食べさせてくれました。
もう仕事から離れたので名刺はいらないと思い、いつの間にか
会長職に有りながら会社では親父の名刺を作ってあげなくなっていました。
私は能美の家に行き、そのプラスティックの名刺入れに沢山残っている
親父の取締役会長の社のマークの入ってない街中の?
印刷店で作らしたであろう変哲の無い白黒の名刺を見るたびに
胸が痛くなります。
なんで親父に会社のちゃんとした名刺を持たせて上げなかったんだろうと
晩年は少し痴呆気味だった親父・・・
それでも創業者会長としての誇りや息子に継承させている喜びもあり
田舎の人にも名刺を配りたかったんだろう
そう思うと慙愧の念に耐えられなくなります。
先週の土曜日に今年になって初めて能美の家(親父の終の棲家)
に行きました。
彼岸の日にも墓参りに行かなかった親不幸を妻と孫のココ
連れて行きわびました。
能美の家に行くと親父の事が走馬灯の様に思い出されます。
三度も野焼きをしていて山火事を起こしかけて消防団が出動して
散々絞られ消防署で念書を書かされ家に戻り、いままでショボンと
していた筈の親父がニヤニヤしています。
私が「親父あんた反省したんじゃない?」と問うと
「そりゃあの場じゃあ神妙にせんにゃあいけまい」と
余り気にかけてない様子
物事余り気にしない鷹揚な人間でした。
何せ甥の結婚式の仲人を頼まれ仲人の挨拶の時お嫁さんの名前を
三度も挨拶の中で間違いいずれもお嫁さんの名前と違っていた
と言う位の豪傑でした
新婚旅行から甥が挨拶に来て
「おじさんどうなっとるん」と問い正すと
「洋一名前なんぞは単なる名称?じゃけん似取れば良い」
なんて滅茶苦茶なこと言ってました。
なんであんな豪傑の息子なのに神経がこまいのかと
嫌になります
4月2日は愛する妻の誕生日です。
本当は4月1日生まれだけど、エイプリュルフールだから
一日親が変えたようです。
中学生の時の同級生だけど、中三の時に島根県からの転校してきました。
大学の3年春、クラス会が広島でありそれが縁で付き合うように
なりました。
以来3年半の遠距離恋愛の後に結ばれました。
中堅のゼネコンの大阪支店に勤務して7年を経て
広島の父親の会社にも戻って来ました。
日頃我侭言っている妻に感謝の言葉を送りました。
愛する君に(昔こんな歌ありました)
誕生日おめでとう。
光陰矢の如しとは本当ですね
親に反対されながら遠距離で交際したのが
ついこの間のように思い出されます・・・・
あれからかれこれ40年近くも時は流れていきました。
帰った頃は乳のみ子の寛明を抱えながら馬車馬の様に
頑張ってくれました。
心から感謝しています。
年を取れば取る程に我侭になり、キツイ言葉を言ってしまい
後で反省しています。
老後の安定な生活を送るために今少し頑張りましょう。
これからも末永く見捨てないで宜しくお願いします。
今日は夕方妻と二人きりで食事に行きます。
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