ソロバンなんかは習わんでいい
タイトルは、私の小学校3年4年担任の内山先生の言葉です。
私は昭和25年生まれ、当時の皆実小学校は1学年確か15クラスぐらい
あったと思います。
それも1クラス55~6人いたように思います。
現在とは隔世の感ですね、息子の小学校時代で、1学年3クラス位で1クラス40人位、小子化といわれて久しいですが私の頃と比べると、実感いたします。
内山先生はかなり変わった先生で何せ下駄履きで学校に来られてました。
専門は社会、今思えばアカ(今では死語?)だったのでしょう、
アメリカの事えらく悪く言っていたから、事ある毎に・・・
その先生がソロバンの時間に「これからは、電算機の時代だ、将来ソロバンなんか使わない時代になる、従ってわがクラスではソロバンは教えない」
他のクラスが一生懸命シャカリキにソロバン習っている時間は
自由時間、校庭に出て遊びまわっていました。
雨の日は内山先生の軍隊時代の「戦争の話」を聞かされました。
お陰で大学出て、建設会社に現場監督として就職し、大阪支店に配属され、
研修期間中に労務の先輩に「佐々木君、ソロバンしてみなさい」と言われたので
「私はソロバン習ってないから出来ません」と答えると、
「そんなことあんめ~小学校の時習ってんべよ~」と言われました。
この先輩山形出身でかなりなまってました。
他の新入社員はそこそこ出来たので、汗かきながら習うのですが、
出来るはずも有りません。
大変な目にあいましたが、確かにいまやソロバンなんかは一般では無用の長物と成りましたから、内山先生は先見の明?があったのでしょうか?
私は昭和47年日本大学の生産工学部の建築科を卒業しました。 そして昭和47年から昭和53年まではK建設に所属していました。 本店は東京にありました。 当時で400億円くらいの完工高でした。 中堅の建設会社でした。 勤務は私の強い希望で大阪支店にして貰いました。 紹介者が大阪支店の支店長だったので希望がかなえられたのでしょう。 なぜ大阪支店を強く希望したのか? この理由が不純?でした。 女房とは遠距離恋愛をしていました。 女房は広島で勤めていました。 当時K建設の1番広島に近いのが大阪支店だったからです。 逢引?するのに出来るだけ広島に近い所を希望したのです。(笑い) 当時大阪支店は全員で30名足らずの小さい支店でした。 建築の親分は当時30歳半ばのN課長でした。 大学は早稲田大学の理工学部の建築科を卒業されていました。 当時1級建築士を建築課のなかではひとり持たれていました。 体があまり強くなくてバセドーシ病が持病でした。 この人はどちらかと言うと営業型人間でした。 当時K建設はP教団に特命で入っていました。 富田林にある教団の本部にプレハブで現場事務所を土木部と 一緒に構えていました。 ある台風の時期の夜の事です。 夜になると雨風が強くて大変なことになっていました。 退社していたN課長がやって来ました。 「みんな今から手分けをして施設の見回りをしよう。」 「こんばんわ。K建設です!異常は有りませんか? 台風の点検で回っています。」 「この様に言ってまわろう。こういう時こそ営業の良いチャンスだ。」 当時まだ現場監督の2年生の私にはとても理解できませんでした。 と言うよりもわざとらしく感じました。 職人気質の私はどうもそういう手法は合わないのです。 しかし今思えばN課長は大阪支店の建築のトップです。 仕事を増やそうと必死の思いだったのでしょう。 私も後年、親父の会社を継いで仕事を取らなければいけない 立場になって初めて当時のN課長の思いが身にしみて分かりました。 私が辞める頃は大阪支店の建築部も大きくなりNさんは 課長から次長に昇格していました。 今でも当時の会社の仲間の事を時々思い出します。 もう40年以上前の遠い思い出です。 弊社では「広島には広島の家づくりがある」と言うコンセプトの 家づくりの勉強会を開催しています。 興味のある方は下記より是非ご参加ください。
昨日は家内と二人で能美の家で墓参りと花見を🌸して来ました。
彼岸は仕事で墓参り行けませんでした。
まだ満開ではありませんでした。
木によりますが、6分咲くらいでしょうか?
去年はマイクロバスで会社のみんなで来ましたが
今回は日にちが合わず二人で休みを取って来ました。
むさしの弁当を新幹線の入場券を買い構内の売店で購入しました。
他の店は11時が開店時間でした。