「親父の名刺」
能美の家の整理箪笥の上のプラスティックの名刺入れの中に
亡き親父の名刺が幾らも使われぬまま沢山入ってます。
私はそれを見るたびに胸が締め付けられるほど痛くなります。
「わしはなんて気遣いの足らない息子だったんだろう」
私が親父から社長を交代したのは昭和62年私が37歳親父は75歳でした。
75歳と言ってもスーパーマンの親父はまだまだ元気一杯でした。
まだまだ現役の社長でバリバリやりかたかっのを無理やり引退させた
帰来もありました。
勿論それからも3~4年は会社に出てきて、縁の下の支えになってくれました。
東雲の倉庫や廿日市の倉庫なども綺麗に残材の整理をしたり今考えると
頭が下がります。
そして80歳を超えて能美島に終の棲家を建てて、
主には能美島に帰り生活をする様になりました。
自分でみかんや八朔や無農薬の野菜などを作り、
私たち家族に食べさせてくれました。
もう仕事から離れたので名刺はいらないと思い、いつの間にか
会長職に有りながら会社では親父の名刺を作ってあげなくなっていました。
私は能美の家に行き、そのプラスティックの名刺入れに沢山残っている
親父の取締役会長の会社のマークの入ってない街中の?
印刷店で作らしたであろう変哲の無い白黒の名刺を見るたびに
胸が痛くなります。
なんで親父に会社のちゃんとした名刺を持たせて上げなかったんだろうと
晩年は少し痴呆気味だった親父・・・
それでも創業者会長としての誇りや息子に会社を継承させている喜びもあり
田舎の人にも名刺を配りたかったんだろう。
そう思うと慙愧の念に耐えられなくなり、
胸が締め付けられます。
2008年4月15日 書いたブログです。 昨年17回忌を済ませました。
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