父親は、私の生来の手先の不器用さを見抜いていたせいか、 大学に行かせて、建築士の資格を取らそうと思ったのか、 私に大工の修行をしろとは言わず、日本大学の建築科へ行かせてくれました。 今の女房とは、中学時代の同級生で、大学の3年生の時から付き合っていたので、 広島に就職するつもりで、地元のゼネコンの入社試験を受け内定していたのですが、 親父に勝手に断りに行かれて、東京の中堅ゼネコンに行く羽目になりました。 学生の分際で女(今の女房です)とチャラチャラしていたので、 広島に勤めさせたのでは修業にならないと思ったのでしょう。 その時は腹が立ちましたが、今となっては、その時の経験が非常に役に立ち、親父に感謝しています。 その会社では、希望して大阪支店に配属してもらい、 住宅公団、大阪府、民間などで、鉄筋コンクリート、鉄骨造等の多種多様な建物の現場監督として、6年余り勤めました。 親父も年もとって来たし、私が、一級建築士、宅地建物取引主任者の資格も取得した事もあり、 昭和53年に、親父の会社に入りました。 組織の大きい所から、小さな工務店に帰り、何から何まで親父のやり方が古く思えて、 帰った当初、2年ぐらいは親父といろいろなことでよく衝突しました。 今考えると商売のイロハもわからないのに、生意気なことを親父に言ったものだと、深く反省しています。 長男が4才、次男はまだ4ヶ月、女房にもすぐ事務所を手伝ってもらったので、 乳飲み子をかかえながらで、女房には苦労をさせました。 ちょうど第二次石油ショックの後で、仕事量もあまり無く、 女房と二人で、手作りのチラシを作り、会社の近隣地域を一軒一軒ポスティングしたりもしました。 今ではそれも良い思い出ですが、 現場監督しか経験のない私にとって、当時は、ドアホンを押すのが嫌で嫌でたまらなかった記憶があります。 家づくり7つの鉄則をまとめて読みたい方は、下記からお申し込み下さい。 小冊子 家づくり7つの鉄則の申し込みはこちら